
浅間神社ものがたり
東根市羽入 浅間神社についての社伝や古文書を紐解いてみました。
口伝えで伝わった物なども多々ございますので物語としてお楽しみ下さい。
羽入村と浅間神社 ものがたり 01
筑後と文殊の兄弟の移住

1550年 室町時代後期頃
陸奥の国(現・宮城県名取市)に植松という地名の里がありました。ある日、村の城主の兄である「筑後」と「文殊」が大願が叶う様にと出羽の国「湯殿山」へ参拝に向かった。その帰り道、現在の東根市羽入に差しかかった所、コンコンと清水が湧き出る地を見つけた。
「水の枯れる水無月にこんなに豊富とは、住むのには絶好の場所。これこそ湯殿山の授かり物だ!」と喜び、急いで里に帰り、一族と相談し、同意者数名と共に再び戻り移住する事にしました。
「筑後」と「文殊」はこの地の開拓の祖となりました。
羽入村と浅間神社 ものがたり 02
羽入神社の創建
身も心も本当に出羽に入った生活が始まり、この地は羽入(はにゅう)と名付けられました。
時は経ち、人も増え28軒の里になった頃、検地を願い出て叶い「931石4斗」の石高を受け開村しました。
村里の繁栄と心の拠り所として、一番先に行うことは神を祀る事であり、すなわち羽入神社の創建となった。
「文殊」がこの地に子安・子宝と地蔵様を崇敬し神仏集合で祀った。


羽入村と浅間神社 ものがたり 03
植松伝兵衛
「筑後」は独立し興家後に「植松伝兵衛」と改名して、名主、村長を務め世襲を行いながらその後200年以上、羽入村の主役を担ってきた。
羽入に移り住み50年程経った慶長7年(1602年)頃
「文姝」の2世である「開基」が寺院、林松寺を起こした。
その頃「筑後(初代植松伝兵衛)」歿す。
羽入村と浅間神社 ものがたり 04
最上城主 最上義光の再建
羽入神社の創建より数年後
最上城主 最上義光(1546-1614)が家督の相続争いから身を隠す時期があり、その途中で羽入神社に身を寄せ世話になった事から、山形城主になる天正時代頃に羽入神社を再建し寄進されたと記されている。
その後、寛文年間 (1661)に神社が消失したものの、天保11年(1840)には羽入神社内での寺子屋より学校が始まったと社伝には記されている。
明治22年頃(1889)羽入村は繁栄し大富(おおとみ)村となる。
明治26年頃(1893頃) お宮を再建し現在に至る。
